本日の抜粋 2

リハビリにはたくさんのスッテップがあるはずで、障害児の教育も、まず運動から。お腹を床につけながらも、移動すれば世界が変わってくる。それで初めて運動と入出力の関係が脳の中に出来上がってくる。寝たきりの子どもにテレビを見せても、身体の動きとテレビの中の動きとは無関係ですから、学習にならない。視覚の変化と自分の運動とができるだけ伴うようなことをさせるのが、リハビリの基本ではないかと。
養老 猛 『話せばわかる!』(対談集)より 清流出版
たしか、この「本日の抜粋」コーナーのはじめ頃取り上げた記憶があるが、ご老体介護において「安静介護」というものが寝たきり老人につながるとして、心ある理学療法士によって「オムツ外し学会」というのが創設された。
また、東北のある障害児施設の専属車椅子製作屋が座位を保てない脳性麻痺の児童のために、その子だけに有効な座位を保てる車椅子を造り、目覚しい成果を挙げたという記事を読んだ記憶がある。脳を立たせる効果というものを徳さんはこの時知った。
最近ではボイタ法との出会いがある。これは脳性麻痺の赤ちゃんの成長過程で、仰向けに寝た状態から、寝返りを打って四つん這いを獲得出来るまでの過程に問題があるとして、成長の初源から丹念にたどり直す療法だ。
いずれにしても、脳が肉体の運動に連動していることだけは確かだ。
リハビリの展望と同時に、新しい課題がここら辺にありそうだ。
学校のなかの「場所」はすべて目的化されている。ここは何々をする場所、そこで何々の勉強をする伴うべき場、というように「余白」がない。しかし、学校図書館は、生徒の使いようと、司書の意識によって、生徒の「居場所」にすることができる。
藤井 誠二 『学校の先生には視えないこと』より ジャパンマシニスト
小学生の時、飼育係りというのをやったことがある。学校で飼っている鶏、ウサギ、鳩などの小動物の世話をするのだ。結構真面目にやった記憶がある。その時、小使いのおじさんが何かと手伝ってくれた。(今は用務員と言うんですか?)今にして思えば、手伝って貰ったのでは無しに、動物の飼育のノウハウを手取り足取り教えてもらったのであった。先生達から学ぶ教科書的なものではなく、実践扁として。授業より格段に面白かったのは言うまでもない。
当時、宿直室と言うのがあって、そこに小使いさんは寝泊りしていた。放課後、仕事から解放された先生達が三々五々、大きなやかんで出されるお茶を振舞われたりしてた。先生にとっても癒しの場であったのだ。そこに徳さんら生徒も加わって、先生たちの授業では知り得ない生態にも触れたのだった。
放課後の時間を警備会社に委ねざるを得なくなった時点で、日本の公教育は何かに負けたのだ。
香山 人間以外の生物のオス同士が、生殖のためにメスをめぐって殺しあうことを、仮に最も生き物度の高い行為だとするならば、カフェ的な空間で同じような年齢の男たちが、その空間には女も点在しているにもかかわらず、つかず離れずの距離を保ちながら、お互いのことを無視するでもなく気にするでもなく、ぼんやりとした時間を共有していられる、などというのは、最も生き物度の低い風景なのではないか、という気がしてしまうのですがね。
『少年達はなぜ人を殺すのか』より 宮台真司+香山リカ 創出社
生き物度が高ければ、オス同士の闘いの延長として殺人も理解される。プライドを傷つけられたからとか、名誉を守るためとか。実際の統計では少年犯罪は減っているらしいのだが、最近の少年犯罪が増加の一途をたどっているように感じられるのは、その意味が理解し難いからだ。
理解困難な少年達による殺人が増加しているのはなぜか?二人の討論は殺人の敷居が低くなったとしている。殺すな!という呪縛が緩んでしまったと。群れとして生きる訓練が施されていない事を嘆くお二人であった。
徳さんも生き物度は低いのに、群れからは自ら進んで離れているのに、殺人の敷居だけは高いのは、少年時代のチャンバラごっこのお蔭なのだろう。
この島(イースター島)の人たちは、大きなモアイを作ってみんな楽しそうに生活してきた。その人々がなぜ戦争をしなければならなくなったか。
その理由を調べるのが、花粉を研究している私の仕事です。(中略)花粉を調べると、イースター島には昔、ヤシの森があったことがわかった。この島は、深い森の島だったのです。(中略)
モアイを運ぶためには、さっき言ったように、コロを使いますからたくさんの木が要ります。それから人口が増えるとタロイモやバナナを作る畑を耕作して森を破壊した。それでどんどん木を切った。木を切ったあと、森はなくなった。そうするとどうなったか。
森がなくなって雨が降ると、表土が全部流されてしまう。それで土地はやせてしまいました。
そうすると、主食のバナナやタロイモが獲れなくなります。
また、木がなくなると船が造れなくなりました。だから、魚を捕りにいけなくなった。
その結果、十六世紀から十七世紀のこのイースター島は、大飢饉に直面したのです。
食糧がなくなって、最後には、「人食い洞窟」まで出現して、人間が人間を食う事態が引き起こされた。
そして、モアイの文明は滅んでしまったのです。
安田 喜憲 『小学生に授業』より 小学館文庫
これは、ちょっとした黙示録だ。
現代の「人食い洞窟」は利権をめぐって国家単位で行なわれている。
この文庫本は様々な専門家が小学生高学年を対象に特別授業をしたものだ。最近、脳の衰えが著しい徳さんは、己の出直し作業として、小学生向けのTVを見たり、この手の本をよく眺めている。なかなかあなどれない。教える人が本物でないと本当の分かり易さというものは出てこないし、知る快感も伝わってこない。
そういえば昔、看護士さんの教科書で医者に読ませたいような名著があったな。
空地に建物が建つ。古い家が取り壊されて、その敷地に新しい建物が建つ。今までの家より大きく、その敷地一杯に。(中略)その新しい景色は、新しいままで、すぐ流行遅れになってしまう。町のあちこちで新しい建設がいつも続いているんだから。
僕はその内無反応になって、かつて新しいなァと思った場所が、いつの間にか息苦しくなってしまっているのに気付けなくなってしまいました。
人が増えて活気づいて、便利になったけど、でも、確かに息苦しくなっている。外がそうなれば僕だって変わる。そういう、〝町の生活〟にどんどん入りこんで行くけど、でもそれと同時に、息苦しくなってしまった町の部分は、どんどんどんどん、僕の視界から落っこって行く。(中略)コンクリートで硬められた上に新しい人が入って来て、その人達はそこの〝今まで〟なんていうことは考えない。みんな、そういうものだと思う。
 橋本 治 『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいのか殺人事件』より 徳間書店
一風変わった推理小説である。ふしぎとぼくらはなにを推理したらよいのかが分からないのだ。
殺人事件も名推理もあるのだが、いつものように橋本節を聞かされているうちに、何時の間にか問題が解決してしまう風なのだ。3人もの人が殺されているのに、陰惨のいの字も、残酷のざの字も、惨劇のさの字も漂ってこない。徳さんが橋本治を好きなのは、彼が徹底した自分というものを持っているからだ。一人机の前に座って、編物をしながらかも知れないが、世界の事象に対峙している。借り物の考え方を排除して、自分の言葉で考えていく。多少文体が回りくどく読みづらいのは我慢しなければならない。
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