本日の抜粋 2

櫻田 キャリア官僚も天下りをするのであれば、どこかの高校の教頭になって、子どもの面倒を見てくれたほうが、よほど国のためにいいですね。(中略)高齢の人々には、無理して情報通信のような新しい流れのなかに脚を踏み込まなくとも、学校で自分の体験を話してもらえればよいのです。いろいろなものを見てきたのでしょうし、その人たちの経験も生かされるわけです。
司会者(佐藤幹夫) 現代の語り部ですね。元キャリア官僚とか、国際外交の最前線にいた人とか、元裁判官や弁護士、ビジネスマン。最前線でバリバリだった人たちが教育現場に入って子どもたちに話をする。教師などよりはるかに専門知識はあるでしょうし、リアルな話が聞ける。教師のほうにも刺激を与えてくれるんじゃないですか。
『「弱者」という呪縛』より 小浜逸郎×櫻田淳 PHP研究所
日常出くわす何でもないことの中に思想的な意味を見つけるという小浜逸郎スタイルは嫌いじゃなかったけど、この対談はあまり感心出来なかった。
相手の最もすぐれた部分を批判するのじゃなくて、駄目な部分をダメダダメダと言っているに過ぎない。
そんな事は俺達だって判ってるさ、としらけてしまう。
引用部分は、参考にはなるよな、という部分。それでも何かお説教めいてるよね。
人の生き死にほど不平等なものはない。特に、戦死したものとそうでないものの差、これほど大きいものはない。もっとも、生きることを無上の価値としてみたときの話だが。人間は本来〝平等〟が好きで、運のある人が不運になったりすると、みな安心したりする。要するに、〝幸福の一人じめ〟みたいなことをきらうわけだ。
平等は、決して悪いことではないし、いいことだが、どうも自然とか運命というやつは平等でないようだ。若くして、食うものも食わずに死ぬのは気の毒なことだ。
どうしてそんなバカなことがあるのだろうと、五十年間考えてきたが、頭が悪いせいか、いまだに結論が出ない。
『水木しげるのラバウル戦記』より 筑摩書房
戦死したもの、若くして食うものも食わずに死ぬ、という部分が無ければ、これはごく普通の人生の述懐ではないかと間違える。しかしこれは第二次世界大戦の末期、日本の敗北が明白になった時点で南方戦線に初年兵として従軍したものの戦争記録である。『ゲゲゲの鬼太郎』の生誕の秘密でもある。
70代を迎えて、20代の頃の戦争体験を振り返っているのだが、ひょうひょうとした生活記録のように書かれている分、戦争の理不尽さが伝わって来る。なにしろラバウル上陸後は無駄な行軍と、米軍の攻撃を一方的に受けるだけなのだ。
そんな中、彼は部隊を抜け出しては現地の土人(水木しげるは土に生きる人という意味をこめて尊敬しながら、うらやましがりながらこの言葉を使っている)との交流に励んでいる。
イラクの自衛隊諸君も彼を教科書にしなけりゃ、人生無意味なままに終ってしまうぞ。
小さなホスピスがあちこちにあって、在宅ホスピスをすすめる診療所かあちこちにあって、そんな方がいいと思うのに、ホスピスは病院でなきゃならない。やっぱりそれって、ちょっとおかしい、と思う。病院で死んでもいいけど、病院でないところでも死んでもよくて、それは国民や市民の自由なのに、ホスピスは病院でなきゃって、自己矛盾だな。もともとホスピスって、病院批判の産物だったんじゃない。それが病院に附属しているって奇妙だね。(中略)ホスピス専門医制度やホスピス専門ナース制度を取り入れたりしては、大きな自己矛盾にさらに陥ることになると思う。ホスピスの根本は、専門性からの脱出、その否定、近代医療が歩む方向の真反対とは言えないが、かなり方向を異にするものだからだ。(中略)
Hospice is not building, but sprits.
徳永 進 『臨床医のノート』より MED
若い時に中国の「はだしの医者」に憧れていたという徳永先生はあくまで庶民派である。
その庶民派の医者が永年の医療現場の経験から思い描く、末期医療、ホスピスのあり方が、厚生労働省の指導、規制方針と大きくかけ離れているのはなぜだろう。
厚生労働省が認めないカイロプラクティックに厚生労働省役人の家族が施療に見える。
厚生労働省が認めない小さな在宅ホスピスに厚生労働省役人の親御さんだって入りたがっているのかもしれない。
役人に特権がある限り、自分の家族の欲求も見えにくくなるのかも知れない。
俺達庶民が欲しいのは、大きな箱物施設ではないし、書類上は完璧なマニュアル化したケアーではない。
網野 日本人が均質だとよく言われるけれど、これは結局、文字の世界が均質であることの投影で、幻想だと思うんですよ。文書の様式や文体は、支配層から決まってきて、全国にひろがっていく。だから、東北の文書でも鹿児島の文書でも、われわれはどうやら読めるんですよ。それで、なんとなく日本人は均質だという感じを持ってしまうんだけれども、文字世界の表皮をはがしたあとに出てくる世界は千変万化なんですよね。
対談集『日本王権論』より 網野善彦;上野千鶴子;宮田登 春秋社
今現在進行形で、世界中の言語が毎年100単位で消滅しているという。日本の方言はどうだろう。
与那国島から北海道は礼文島(北方四島の問題はひとまず置いておく)まで、TVのおかげで東京語が日本中に流れている。文字世界だけでなく、口語の世界も均質化を迫られている。文化においては地方のアンちゃん、ネエちゃんがその表層をいち早く真似ている感もある。一昔前の『平凡』『明星』の世界の表層的先取りと同様である。そこには違いを否定的に見なす、中央からのメッセージがある。
生き物たちの種類がどんどん減っていくというのもそれに関連したことなのかも知れない。
今に地球上には、人類と、ペットとしての生き物と、食糧としての家畜以外に見当たらなくなる日もあるような気がしてまうのは、徳さんだけの妄想なのだろうか。
過保護に危機を回避させていくことが、教育者や親や年長者の務めだろうか。危機を危機と認めさせることこそが重要なのであって、教育とはそこを回避させることではないのではないかと、このごろ思うのです。
〝癒し〟の本源は、癒すことより、危機に陥ることが重要なのです(笑)。危機に陥ったときに「これはやばいぞ」といかに思えるか。みんなで寄ってたかって「大丈夫よ」というような慰めや励ましは、癒しでもなければなんでもない。我々は悩んだり葛藤したり、とんでもない地獄に堕ちることを体験することが、実は癒しに近いのです。そうでないと擬似癒しになってしまいます。
アロマセラピーだとか、水晶を握りしめながら、己を虚しくして会社と同一化した「会社のためには死んでもいい」という人間を作るのが、いまの癒しでしょう。となると、この社会はもっとハチャメチャになったほうがおもしろいのではないか。
教育者の立場としての僕は、「この社会はもう少しどうにかしましょう」と提言していますが、人類学者としての僕は、もっとやばいところを見たいと思っているもの。
上田 紀行 養老猛対談集『見える日本、見えない日本』より 清流出版
ちょっとこの所、養老猛づいていて恐縮であるが、本日は対談者の発言。
擬似癒しという言葉は結構重い。
なぜなら、僕達を取り巻く環境は、擬似平和だったり、擬似平等だったりする訳だからして。
本人がそれと自覚しない擬似愛が相手を破滅に追いやる事だってあり得る。
一言、注文を言わせて貰えば、もっとやばいところを見てみたい人類学者ではなしに、やばさと受け止められてない事柄から、今以上にやばさを浮き彫りにする人類学者であって欲しい。
人類学者が提供すべきは、過去から現在のデータであって、ホラー未来の期待等ではない。
まあ、ここしばらくは、いろんな良心的とされる名詞にギジギジと付け足してみよう。
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