本日の抜粋 2

いろんな他人たちと自由自在に付き合って生きるだけの強靭な自尊心、あるいは柔軟な自尊心がなくて、非常に脆弱なんです。脆弱であるがゆえに、いろんなサブカルチャー・アイテムを使って、自分がコミュニケーションをする相手をスクリーニングするわけです。その結果、人畜無害な、つまり、自分の自意識にとって危険がない人間とだけ、コミュニケーショをする。そういう形で、脆弱な自尊心を温存するという振る舞いが出てきたんですね。
その結果、結論的に言うと、サブカルチャー・アイテムは、そういう力学の中でどんどん細分化していった。そのあとは、当然ながら、サブカルチャーをどんなに細分化しても、その中に入っていけない人間が出てくることが予想されるわけで、それが現に出てきた。そういう人間が九〇年代に入るころからだんだん目立ってきて、引きこもりと呼ばれるようになったと思っているんです。

成熟社会になれば、いろんなことが不透明になりますから、「これさえあれば大丈夫」といった<物語>が難しくなります。したがって、個人的な試行錯誤が重要になるんです。しかし、試行錯誤の中には取り返しのつかないものもあります。例えば自殺であるとか、堕胎であるとかです。だから、「完全情報」が重要になります。できるだけ行き届いた情報が必要になるということです。
ところが、人間というのは逆説的なもので、人が世界を生きるのは不完全情報だからだとも言えます。つまり、全てがあらかじめ分かっていたら、人は生きる動機を持たないでしょう。ここに成熟社会の重大な逆説があります。成熟社会は自己決定を重要としますから、不完全情報を完全化すること、つまり完全情報化が重要になるんだけど、完全情報になればなるほど、人は生きる理由や動機づけを失うという重要な問題です。
藤井誠二・宮台真司 『この世からきれいに消えたい。』より宮台の発言 朝日文庫

自分でもいぶかしく思うが、子供もいないくせして青少年の動向が何故か気にかかる。還暦を前にした今もなお、発達不全のごとく、青少年の心の鬱屈に共感している面があるからなのだろうか。
最近の少年犯罪には意表を突かれるものが多い。少年犯罪の発生件数でいえば、過去のそれと違いはないか、むしろ減少しているらしい。なのに印象としては一気に増加している。理解の範疇を超えた行動とみなされるからだ。しかし、理由のない犯罪などこの世に無い。ただ、判りにくくなっているだけだ。
訳知り顔のTVのコメンテーターが彼等以上の犯罪者に見えるのは、彼らがその解かりにくさに踏み込んでいないからだ。
「ぼく個人としては、一人の患者さんとの出会いが大きかった」
「どんな患者さんです?」
「最初の診察のとき、「おれは東大教授に診てもらった。それでも酒はとまらなかった」と威張った患者さんです。そして「それをお前に治せるか」っていうんですよ」
「つまらんことを威張るもんですね」
「人間はプライドなしには生きていけないものです。他になければ、欠点だってプライドになる。「おれはそこらに転がっている普通のアルコール中毒とは違うんだ」」
「たしかに、そういう気持ち、ぼくの中にもありますよ」
Nさんは苦笑して、認めた。
(中略)
「すると、その答えが良かった。「東大教授に診てもらっていたときは、なにしろ大先生だからと、医者に頼りっきりだった。ここにきて先生の顔を見ているうちに気がついた」」
「なにに気がついたんですか」
と奥さんが急かした。答えを聞きたくて我慢ができなくなったらしかった。
「「自分がしっかりしなくちゃいかん」ということですって」
なだいなだ 『アルコール問答』より 岩波新書
客観的に述べれば、徳さんも立派なアル中患者なのだろう。
なにしろ、キーを打っているただ今現在も、アルコールをちびりちびりとやっているのだから。
この本を読んで、アルコール中毒の患者の意識と徳さんのそれはほとんど一致する、という再発見と言うか再認識をさせられた。
欠点だってプライドになる。というくだりは、情けないやら、うれしいやら。
毎晩、寝る前にひとしきり私の口もとをなめ、私の腹の上で寝る。
その手順を省略するときげんが悪く、呼んでも出てこない。
餌も食べずに、部屋の隅の箱の毛布に潜りきりになってしまう。
自分の意志をはっきり持っている犬。
これは条件反応的に訓練したおりこうさんではない。つまり芸はなにもしないのである。
そのかわり、自分の気分で行動するから、いやなときはなにもしないだろう。
私自身は、サル回しのサルにせよ、訓練された学者犬とか、絵を描く犬のように、きちんと指示どおりに動く動物にはあまり関心がない。賞罰の組み合わせで条件反応型の行動を身につけさせることは、あるていどの中枢神経、つまり脳を持っていればとうぜんできることなのである。
 それよりも、訓練自体がいやだ、今日はやりたくない、あるいはそんなばかばかしいことができるかといった主張をする動物がいるのかどうか、そのほうに興味がある。
奥井一満 『アワビがねじれてサザエになった』より 光文社文庫
最初の一行でなにやら変な事を考えた人は徳さんと同類の人種だ。
本当の慎ましやかな、動物などの生き物や、自然との付き合い方が出来なくなったのが今日の我々である。
自然に対する加工度を競ってばかりいる。
人間の生活圏に合わせたペットを作り出したり、芸を仕込んで支配者然としたり、それを産業化したりしている。
最近の天災の被害がでかいのも、人間の自然に対する加工の不手際が原因となっている。
「悟りといっても、迷うていることを悟るのである」
本願念仏の教えでは、何よりもまず、私たちに「罪悪生死の凡夫」たることを自覚せしめる。。そして迷いと気づくことは、すでに迷いの外にいることをあらわしている。それは人間をこえた仏の光明(仏智)に照らされているからである。だから、「迷い」を知ることこそが、悟りを意味しているのである。こうしてみると、「迷いの跡」といった賢治は、浄土真宗では、すでに悟りと等しい信境に達していたと、私には思えるのである。
小桜秀謙 『宮沢賢治と親鸞』より 彌生書房
これは宮沢賢治が臨終の床で父政次郎に原稿の山を指差し「あれは私の迷いの跡だから適当に処分してください」と言った事を受けての著者の感想である。
徳さん、宗教心も無く知識も無いが、命を削る事までも惜しまぬ賢治の自力信仰の果てが、他力本願の教えの究極に位置するという事は考えさせられる。
「南無阿弥陀仏」と素直に仏に身を委ねる他力本願の信仰も、簡単なようでなまやさしくはないわな。
自力、他力の往還を想う。
それにしても、賢治の迷いは短い期間でのすざましい質と量である。
戦争がすんで幣原内閣のとき渋沢先生が大蔵大臣をやられた。ある日戻ってくるなり、「宮本、すばらしいじゃないか。こんどできる憲法は、軍備を持たない、戦争を絶対にしないということを誓うのだ」と興奮して話された。ぼくは「一体軍隊がなくて国が成立するのですか」「いままではそうだったが、軍備をもたぬことがどんなにむずかしいことであろうとも、負けたわれわれにだけ新しい試みとして出来る事だ。これほど誇らしいことはないじゃないか」
『佐野眞一責任編集 宮本常一』所収 水上勉との対談「日本の原点」より 河出書房新社
ものの本を読んでて、それと関係ないところに反応してしまうのは、道草派、つまづき派の徳さんの特徴であるからして許してやって欲しい。どうせ、本論は理解出来っこないと諦めきってる証拠でもあり、なんとも恥ずかしいのだが。
渋沢先生とは渋沢敬三のことで、民俗学に造詣の深かった彼の家に、宮本常一は長く居候していたので、こんな会話が残っているのだ。民俗学者を囲うなんて、当時の政治家は洒落ている。
敗戦直後の現日本国憲法制定の雰囲気は余りにも知られていない。
(学校の日本史の授業は中高とも、かなり面白い先生が教えてくれていたのだが、どういう訳か、現代史ははしょられていた。何のため歴史を学ばされていたか、今考えれば根っこのところで世間知にたけた、ずるい先生方だったとしか言いようが無い。隠れた文部省指導などがあったのだろうか。)
改憲論議がかしましい中で、戦争の残虐さと無意味さを味わった直後の当時の政治家の、この正直な興奮を知る事も大事だろう。
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