本日の抜粋 2

私の周りだけでも、精神的な豊かさを求めて国境を越えた日本人が何人もいる。
 日本は島国で、閉鎖的だという俗説を信じない。私たちの中には、未知の体験と精神的な開放を求め、外に向かって出てゆこうとする気質がいくらでもある。江戸時代以降現在にまで至る鎖国的政策が、そういう日本人の想いを封じこめてきただけなのだ。
 世界は日本に押し寄せ、日本は世界中に散らばっている。国境を越える無名の人びとによって国境は日々無化されつつある。無名の越境者同士の出会いと理解が、唯一、世界地図の正しい読み方を提示してくれるはずなのだ。的はずれの「ODA」、現場を知らない「国際交流」、善意を押し付ける「ボランティア」、なしくずしの「PKO」と「PKF」・・・・。すべてが無駄と逆行である。
戸井十月 『旅人に訊け』より 晶文社
せっかく新宿周辺で開業しているのだ。よし、これからは新大久保辺りを積極的にうろつくようにして見よう。
というのが、正直な読後感。
国内での越境者たらんとする徳さんでありんした。
森 国家間の戦争から、武装勢力によるテロという新しい段階に世界が直面しつつある今、人類の生殺与奪を、メディアは握っています。
森巣 戦争というのは、人が人を殺すということです。今は、消毒された映像しか見せてくれない。湾岸戦争以降、徹底的なプランニングがなされ、メディアは権力の都合のいいようにしか機能しなくなりつつある。
森 (中略:この中略では綿井武陽のイラク戦争のドキュメンタリー映画の存在と、その時の映像素材を使って出来たTVメディアの作品の存在が語られている。)まず何が違うかというと、映画には音楽やナレーションが一切ない。現場のノイズが全部再現されている。病院の中で、泣き崩れる母と子がいれば、医師の吐息、遠くでアラーの教えを説いている声、撮影者である綿井の靴が瓦礫を踏みしめる音、それらが渾然となって耳から入ってくる。でもテレビでは、音楽やナレーションで、そんなノイズを消してしまう。要するにわかりやすくするための加工の一環です。
 また、米軍の侵攻から始まる冒頭で、カメラを持った綿井が米兵に向かい、なぜ市民を殺すんだと、激しく詰め寄ります。撮影者の主観が表われすぎているとの理由で、テレビ的にはNGとなるシーンです。
 テレビ的な中立や客観などの呪縛から解き放たれたときに、いかに戦場というものがリアルに立ちあがってくるかということを、そのドキュメンタリーでつくづく実感しました。
森達也・森巣博 『ご臨終メディア』より 集英社文庫
薄め液は怖いというお話だ。
加工品は怖いというお話だ。
省略は怖いというお話だ。
客観は怖いというお話だ。
「これはぼくの仮説だけれども、アイヌの人たちは藍をつかって、体に入れ墨をするじゃないか。エゾの人々も、体にきれいな入れ墨をしていたことはあきらかだ。思うに縄文時代の人たちも、土器に描いてあるような文様を、体に入れ墨していたんじゃあないかなあ。以前君が言っていたように、未開社会では体に入れ墨をほどこすというのは、自分は動物とは違う聖なる人間存在なんだぞ、という表現をするためだったんだろ。(中略)ところが京都を中心とする西日本では、それが逆の意味をもたされるようになったんだ」
「身体の表面を傷つけてそこに藍色を掘り込むことは、臓物や体液を皮膚の外側にさらけ出させるのと同じという、逆の意味になってしまったわけですね。」
「そうだよ。原始・未開の文化の意味が、そこではすべて負の意味をもたされるようになっていった。君は非人という言葉の意味を考えてみたことがあるかい。」
「あるよ。非人すなわち非人間、人間ならざるもの、人間を超えた力の領域にふれているものさ。でも、同じ人間といっても、アイヌの人たちが自分たちを『アイヌ=人間』と言っているときの人間と、放免や悪党や犬神人たちを見て『あんなの人間やおへん』と言っている人たちの言う人間とには、根本的な違いがあるね。アイヌの人たちは、人間のふつうの能力を超えたものをみんな『カムイ』と呼んでいるじゃない。そこじゃあ、非人間=カヌイ=聖なるものと考えられていた。カヌイの和語がたんなるカミじゃなくて非人間としてのカミなんだと考えると面白いねえ。ところが西日本を中心として、非人間=非人=賤しいものというふうに意味の逆転がおこなわれて、そこに組織的な差別というものが発生するようになった」
中沢 新一 『僕の叔父さん 網野善彦』より 集英社新書
徳さんは中1の途中から数年間を広島市で過ごした。
被爆を受けた都市の市民として、平和を願う市民として皆が真摯なのを実感出来た。
教師にも被爆者がいたり、日常出くわす人の中にも、さりげない日常会話の中にピカドン体験と平和を希求する心が一体となって、当時生意気盛りの徳さんの胸を打つものがあった。平和都市広島!と、広島市長を始め、多くの市民が高らかに謳っていた。
しかし、にもかかわらず、広島は、この中沢、網野両氏の会話に出て来る、いわゆる西日本の差別感情の坩堝であった。
原爆スラムと蔑称される地域は、被爆者差別と在日朝鮮人差別と特殊部落民に対する差別が三重複する世界であった。
平和を希求する、平凡な市民の中にそんな心が潜んでいた事を知った徳さんが、それからどんな精神的なかせを負ったことか。
以来、得々として正義を語る人を、その時出来たフィルターを通して見るようになってしまった。
脳は、血液・脳関門という仕組みによって、有害な物質から特別に守られている。(中略)ところが、情報刺激は、視神経や聴神経や知覚神経を介して、瞬時に脳に到達してしまう。そこには何のバリアーも存在しない。先の章で述べたように、たとえば、テレビゲームをすることも、覚せい剤を注射することと同じように、ドーパミンのリリースを引き起こす。情報刺激は、物質的な刺激と同様、脳の中では、結局同じ神経伝達物質の濃度上昇という生化学的信号に変換される。
岡田尊司 『脳内汚染』より 文藝春秋
何時ごろからだろうか、遺伝子にインプットされた生きるためのノウハウが、かつて人間が出くわしたことの無い事態の出現によって通用しなくなったのは。
遺伝子が知らない物質に対しては、その遺伝子を乗せた生き物は無防備である。
石油化学製品を筆頭に新しい物質が体内に入るようになってしまった。それだけでも、遺伝子レベルで解決されるようになるまでは、何千年、何万年かかるか知れない。
この本では、さらにその上に情報が脳を侵すという。
現代を生きる細胞さんは大変だ。
どうしたら、中央集権主義を防げるか、官僚的支配を防げるかと問うことです。必要なのは、その「技術」です。道徳的なお説教によって官僚制を阻止できないことは、中国の長い歴史が示しています。また、近年の中国の歴史は、毛沢東の文化大革命のような残酷な「手術」によっても、そうできないことを示しています。もし医学的なメタファーをもちいるなら、私は、野口晴哉の「整体」のように、どこか体の別なところを少し動かすだけで、自然に全体を治癒させてしまうやり方があると思うのです。それが、選挙+籤引きです。
柄谷行人 『日本精神分析』より 文藝春秋
こんな難しげなことを書いてある本を徳さん、めったな事では読まない。きっと誰かにそそのかされての事だと思って欲しい。
さも判ったげに、えらそげにものを言う評論家は多いけれど、批判した事柄に対して、方針を対置している批評家は皆無に近いと言っていい。小説を素材にして、情況を分析し、まがりなりにも方針まで出しているこの本は面白い。その方針がいくぶんドンキホーテの装いを持ってしまうのは現在と言う情況が悪すぎるからなのだろう。
それにしても、やってみたいな。
国会議員にふさわしい人を選挙で数人選び、選ばれた数人でくじを引く。
それだけで馬鹿みたいな選挙運動は無くなるし、利権の構造も崩れ去る。
なに、あるレベルさえ確認されれば、国会議員なんて誰がやったっていい代物だわさ。
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