本日の抜粋 2

「ねえ、あやとりでも折り紙でもいいけど、子どもの遊びの最大の特徴ってなんだか分る。それは年寄りとの共通点でもあるわけだけど。」
「いや」
「同じことばっかりくり返すって事。子どもは一度楽しいと思ったら、もうしつこいでしょ。同じことばっかり何遍も何遍も。でもほんとはそれでいい。なまじっか知恵がついたり、自分に自信ができたりしてくると、さらにもう一歩前へ進まなければ、なんて考えちゃうの。それが大人になることだと勘違いしてるんだわよ。同じ場所にいることが怖くなっちゃうのかもしれないわよね。同じ場所にいることすなわち停滞である、なんちゃって。ほんと、馬鹿みたい。いいのよニュートラルでも、同じことのくり返しでも。走るのに疲れたら、歩けばいいじゃない。歩くのにも疲れたら、立ち止まってしゃがみこんで、道端に花でも眺めてみりゃいいじゃない」(中略)
「子どもと年寄りは、それを本能的に知っているわ。人間なんてそんな大層なものじゃない。ほら、子どもと年寄りって仲がいいでしょ。つまり働き盛りの人間たちは、ちょっと回り道してるだけ。どのみち、しまいにはそこへ辿り着かざるを得ない。あんただってそうじゃないの。」
三浦明博 『滅びのモノクローム』より 講談社
徳さんはこのようなサブカルチャーである推理小説などからお説教されるのが好きだ。
おまけにこれは副主人公である、いかつい顔のいかつい体格のおかまの発言である。おネエ言葉なのは許してやってほしい。
行き詰まった現代音楽や、行き詰まった現代美術とまったく同じように、現代詩の業界もどんづまりまで行き詰まって久しい。 行き詰まった業界人はいつでもどこでも「むずかしくする」ことで生き残ろうとする。(中略) でもね、すべての芸術はまず落ちこぼれに救いの手をさいのべる、貴重な命綱だったはずだ。頭のいい人たちのオモチャである前に。そうやってロック・ミュージックが生まれたのだし、ニュー・ペインティングが、美術教育体系とかけ離れた環境から出てきたのだ。現代詩だって同じことだろう。頭いい人たちが、学校から給料もらいながら「現代詩は死んだか」なんて議論して時間潰しているあいだに、もっと、はるかに切実にリアルな言葉を必要としている人々がたくさんいる。その人に向かって書く人がいる。コンビニ前にしゃがんでいる子供が、いまなにを考えてるかといえば「韻を踏んだかっこいいフレーズ」だ。60年代の子供がみんなエレキギターに夢中だったように、現代の子供にはヒップホップが必修である。だれも聞いたことのない、オリジナルな言葉のつながりを探して「苦吟」するガキが、いま日本中にあふれている。国語の授業なんてさぼったままで。 いったいいままで、若者たちがこんなに詩と真剣に向きあった時代があっただろうか。 詩は死んでなんかいない。死んでるのは現代詩業界だけだ。
都築響一 夜露死苦現代詩より 新潮社
コンビニ前にしゃがんでいるアンちゃん、ギャル達を見て、カイロプラクティック士である徳さんは、ああ、背筋が弱っておるな。嘆かわしい事じゃ。このまま行くと人類は地衣類に成ってしまうぞ。との感想しか持たなかった。彼らの関心事に関心がなかった。これじゃあ世代間の断絶は埋まらないよな。
全てじゃないにしても、彼らを見る目が変わった事には違いない。
僕は、難しくなくて、ああいうところでちゃんと通路ができて、道があって、休むところもあって、信者や巡礼の人が行き来している、そういうにぎやかなところで、ある一つの風景を回っていくというのは、ちょっといい気持ちではないかと思っています。お寺さんの中や修行している場所よりも、風景ですね。四国は空海が故郷に造設したディズニーランドですからね。
吉本隆明 『老いの超え方』より 朝日新聞社
空海が造設したディズニーランドというのはスケールがでかくていい。東京ディズニーランドなんてのはちっちゃい、ちっちゃい。
徳さんの大学時代の友人M君は大手のスーパーを退職した後、お遍路さんとなって巡礼の旅をしたそうな。
お遍路さんの装束をまとえば、他人様の庭を通る事も許されるそうな。四国出身のM君が感情の屈折の折取った行為はなんか羨ましい感がする。
現代の日本社会を否定するかのような人びとの許しの中でM君は何を感じたのだろうか?
そういえば、民主党の菅君は丸坊主になって四国巡礼をしたはずだよな~。
なのに都知事選不出馬の言い訳の御託は傲慢そのものだ。
君はそんなに偉いのか?
菅君がたどった四国88ヶ所巡りは、選んだ順路が逆コースだったようだ。
*「大量生産→大量消費」という現代の図式が、ひとつの<無限幻想>であること、実体はそれは「大量消費→大量生産→大量消費→大量廃棄」という、資源的/環境的に両端を限定されたシステムであることを見てきたけれども、歴史的な大量消費社会は、この両端の項をその「外部」の諸社会、諸地域に転嫁することをとおして存立してきた。大量消費社会の内部の人びとの日常意識と、これに依拠する言説の<無限幻想>を支えてきたのは、始点と末端の真実を視えない世界の方へ送り出してゆく、この間接化の構造であった。

*現代の情報消費社会は、人間に何が必要かということに対応するシステムではない。「マーッケット」として存在する「需要」にしか相関することがない。システムがそれ自体の運動の中で、ますます複雑に重層化され、ますます増大する貨幣量によってしか充足されることのできない「必要」を生成し設定しながら、「必要」に対応することはシステムにとって原理的に関知するところではないという落差の中に、「北の貧困」は構成されている。
 それはシステムの排泄物である。つまりシステムの内部に生成されながら外部化されるものである。

*現代の情報消費社会のシステムの原理上の矛盾のこのような、「福祉」という補完システムによる手当ては、国家により時代によって、充分に近い水準でなされることもあり、ほとんどなされていないこともある。この量的な水準の上下はもちろん、じっさいに多くの人びとにとって切実な問題である。けれども、この量的な水準の上下とは関わりなしに、この社会の原理的なシステムによっていったんは外部化され「排出」された矛盾の、第二次的な「手当て」であり「救済」であるという構造は、この「福祉」という領域を、基本的に傷つけられやすいvulnerableものとしている。危機の局面にはいつも、「削減」や「節約」や「肩代わり」や「自己負担」や「合理化」の対象として議題の俎上にのせられるものとしている。<福祉>welfareというコンセプトが、(その原的な目的性においてではなく、)システムの矛盾を補欠するものとして、消極的な定義をしか受けていないからである。
見田宗介 『現代社会の理論』より 岩波新書

アフリカの飢餓問題をはじめ、世界中の南北問題がなぜ何時までたっても解決しないのか?
北にとって南は食物であると同時に便所であるから、と言う事らしい。
極端に言えば、我々の繁栄のためにはアフリカの飢餓が必要だということになる。
北の住人には、その事をオブラートでくるんでしか伝えられない。
なにしろ間接化の構造なのだ。
解決の道は無いのか?あるはずだと筆者はいう。間接から直接へ持っていく事だ。
マスメディアの態度が変わればそれは出来ると、、、。
美辞麗句のお好きな厚生労働省も<>付き福祉の本性を剥き出しにしてる最近の動向だが、これは北の中の南北問題。
日本の学校教育の内容にわれわれはもっと注目すべきです。この際の教育内容というのは教科内容を意味しません。(中略)教育内容とは、例えば積極的に質問することを重要な目標として子どもたちの自発的な発言を奨励するとか、自立心を養うために子どもたちの失敗に対して寛容であるとか、付和雷同型ではない自主性を持つ子どもを育てるために、批判と人格攻撃は別のことだと教える等々、そういった社会的価値意識の形成過程を指します。
 残念ながら、現在の日本の学校ではこうした価値意識形成についての自覚的な努力が不足していると感じられます。実情を観察していると、努力しようとしてもむしろ妨げられ、昭和十六年に文部省教学局が発行した「臣民の道」とあまり変わらぬ価値意識を再生産することを強要されているかに見えるのです。
紺野 馨 『日本と西欧』より
日本を語るとき、よく西欧のあり方と比較して、だから日本は駄目なんだ、とか、日本固有のものだから守らねばならぬなどの議論があるが、それらは神話(過度の単純化と一般化がなされたもの)に基づいたもので危険な要素を含んでいる。ということらしい。
西洋は一枚岩ではないということを、キリスト教の歴史をひも解きながら展開しているこの冊子は、日本もまた一枚岩ではない事を暗示している。
抜粋は、ちょっと関係なさそうな処を選んでしまったが、、、、。
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