本日の抜粋 2

「毎日微生物を相手にしていると、人間の差など馬鹿らしくなってくるのさ」
それは作田の実感だった。人間臭い学問ほど、人間の差を微に入り細に入りあげつらう。下手をすればそれが人の間に溝をつくる結果になってしまうのだ。基礎医学は逆だ。人間を越えた真実を研究することで、偏見と先入観が払拭される。物理学者が時としてラジカルな体制批判者になるのは、その良い例だろう。
帚木蓬生 『アフリカの蹄』より 講談社文庫
アパルトヘイト撤廃後の南アフリカを背景に、表向き、建前だけは無いはずになっている人種差別を、天然痘という恐ろしい、人類が克服したとされる細菌を一滴、黒人社会にたらす事があったとしたら、読者である君はどのように考え、行動するのか?と、問うてるような本である。
長い年月ですっかり汚れちまってる徳さんは、読んでて冷や汗タラタラである。
でも、抜粋したこの見解には大賛成である。
地上の生活にあくせくしながらも、一方で地上から高く飛んで鳥瞰図を見るような行為が大事なのだろう。生活上の茶飯事に巻き込まれながらも、生き物としての原理原則によって照らしあわす事が大事なのだろう。
フィクションで正義を語られてもなあ、、、、。という、この本を読んだ一人の患者さんの感想を付記しておく。
しかし、生態系は長い年月の間これらの内分泌攪乱物質にさらされてきたため、たいていの生物はそれらを体内で処理するシステムを獲得しており、一日もあれば体外に排出してしまう。そのため体内に何年も残留してしまう合成化学物質に比べると、毒性はとても小さいといえる。
東京大学教養学部 立花隆ゼミ 『環境ホルモン入門』より 新潮社
これらの内分泌攪乱物質というのは植物性エストロゲンの事を指しており、なんと日常我々に欠かせない米、麦、ジャガイモ、人参、リンゴ、豆類、パセリなどなどに含まれているという。一瞬恐ろしさに見舞われるが何千年、何万年の間に上記のように無害化されている。ウィルスの話もそうだが、生き物の生存に、今に至るまでの時間の重要性が認識されなければならない。
最新の物に浮かれて200年。人類は地球の呼吸の異常さにようやく気付き出した。
徳さんがカイロプラクティックの施療に何となく自負を抱いているのは、カイロプラクティックの施療が原始的なものに過ぎないからだ。
私はこれまで、いろいろなところを旅してきました。アフリカにも何度も行って、ずいぶん人が死んでいるところを見ました。飢えて病み、いままさに死のうとする少女をすぐ眼の前で見たこともあります。そうした<見る>行為により「眼が焼ける」思いをしたこともあります。見ているだけで瞳がちりちりと焼け焦げるような、そういう風景を見ました。私は心の底から思ったのです。子供が飢え死にしているこの風景こそが世界の中心でなければならない。同時に、私は私の<見る>ないし<視る>に、拭っても拭いきれない罪や恥のにおいを嗅ぐともなく嗅いでいました。
 ソマリアで、飢え死にする少年や少女を見ました。しかし、たくさんの人が死んでいる。でも、私はなにもできない。なにもしない。なにもしようとはしない。ただ突っ立って見るだけ。そして空調のきいたホテルに引き返すと、パソコンに必死で原稿を打ちこんでいる自分がいる。(中略)が、心は晴れません。屍臭が躰の芯に染みついて、消えることがありませんでした。私は、人にはあまり話したことがありませんが、とてつもなく恥ずかしくなりました。だれに対して?わかりません。たぶん、自分自身に対してでしょう。自分の内奥の眼に恥と罪が誘(そび)きだされ、暴かれたのでしょう。記者であることの恥辱。あるいは作家であることの恥辱。そして人間であるがゆえの恥辱。ただ見ることの罪と恥。これがそもそもなにに由来する罪と恥か、そも淵源を私はしばらく考えなければなりません。だから、可能であれば、いましばらく生きたほうがいいと思うのです。
辺見 庸 『いまここに在ることの恥』より 毎日新聞社
著者は3年半前に、講演中、脳内出血で倒れ、そのリハビリ中に癌が発見され長く闘病生活を強いられてきた。
引用したのは復帰後最初の講演から。この本の三分の二は、闘病生活のベットにパソコンを持ち込み、右半身不随のため左手で打たれたものだ。そのことだけでも胸打たれるものがある。
世界の中心に飢えて死んでいく子供の風景を!
この主張を声高に唱える事は誰もが出来るといえばできる。しかし、自分自身を撃つ言葉として、自分の日常を照らし出す言葉として、自らを断罪する言葉として成り立たせなければならない。
女が男の外見で特に重要視しているのは(それはほとんど意識しているわけではないのだが)脚の長さである。身長も確かにそうだが、どちらかと言えば脚の長さの方が重要であるように思われる。それは、脚の長さが何か寄生虫に対する抵抗力を示しているからではあるまいか。類人猿とは違い、人間は地上のみの生活へと進出した。地上生活は樹上生活に比べ、はるかに糞まみれ、尿まみれの生活である。川へ出かけるなど、水と接する機会も格段に増えた。そうして人間にとって新たな問題となったのは、回虫、ギョウ虫などの腸管寄生虫、そして川にすむ貝を中間宿主とする住血吸虫などであったはずである。それら寄生虫が、成長期の人間に多数取りついていたとする。寄生虫は彼(彼女)のプロポーションをどのように操作するだろうか。脚を伸ばすか、胴を伸ばすか。おそらくそれは胴の方だろう。なぜなら胴は、彼らの大事なすみかなのだから。逆に、成長期にあまり寄生虫を持っていないとすると、彼(彼女)は脚がよく伸びるという結果となるだろう。脚の長い男をカッコいいと思い、惚れてしまう女は、やがて彼の資質を受け継いだ、寄生虫に強い子を得ることになるのである。
竹内 久美子 『パラサイト日本人論』より 文春文庫
なぜ、徳さんが胴長短足に甘んじなければならないのか?
長年の疑問が解き明かされた。徳さんが悪いんじゃない。御先祖様の不幸を引きずっているだけだ。
なぜ、徳さんが女性にもてないのか?その事も同時に判ってしまった。
さて、これから数千年かけて脚を長くするべく、寄生虫さんに嫌われるよう努力しよう。
そして、その山こそは、新しく誕生しようとしている胎児を、あたたかくまた厳しく包み込む、巨大な母体なのです。(中略)この母体の中で、山伏たちは、輪廻の生存について思いをこらし、しだいしだいに胎児としての成長をとげながら、新しい誕生にそなえるのです。(中略)
その時(満願の日)大きな声で「オギャーオギャー」と叫ばなければならない、とも教えられます。新しく誕生しなおした生命は赤ん坊の歓喜の泣き声とともに、下界に向かって、一目散に飛び出していくのです。
中沢 新一 『哲学の東北』 青土社
いままで山伏の修験道に関心もなかった。表層的に流布されてる山伏像に意味を感じなかった。
独特のいでたち、ほら貝、女性禁制の男社会。どうもごわごわしてて近寄りがたかった。
しかし、その実際は男としての我を捨て、生まれ直す、女性をことさら意識した修行であった。受胎という決定的な他者受け入れが出来ない男達のもがき、再生の儀式という訳だ。他者が受け入れられないと権威、権力に走る、という指摘は、今までの歴史をすべてポンチ絵化するぐらいの迫力を持っている。
そういえばブッシュ君、他者を受け入れられない典型的な人物でしたな。
この本は宮沢賢治の応援本でもある事を付け加えておく。
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