本日の抜粋 2

森巣 このように錯綜した民族概念には、その根っ子の部分に、嘘があるのではないかと、私は考えます。民族概念とは、「西洋近代」の発明物です。「民族」は、文明、文化、国民、国家、人種などと同様に、早くても十八世紀の後半に、社会分析の道具として立ち上げられたものなんですね。(中略)
姜 いずれも、「われわれ us」と「かれら them」を差異化する言葉ですね。そして、それらの言葉を使用するうちに、いつの間にか、「われわれ us」=「西欧人」が、「かれら them」=「西欧以外の野蛮人」を、抑圧・収奪するのに都合のいい理屈が、無意識的、自動的に、つくりあげていくんです。
姜尚中・森巣博 『ナショナリズムの克服』より 集英社新書
錯綜した民族概念というのは、簡単に言えば、己れ一人の能力とか人間性というものに一切関係なしに、己れを省みる事無く、己れの所属する集団を錯覚しながら力頼みする事態を言う。なんか家系図自慢の貧相なオッさんをイメージしてしまう。ダメな奴ほどそんなものにすがる。
徳さんの主張は単純だ。
世界中の民族をミキサーにかけてシャッフルしちまえ、というものだ。
勿論、これは意識の上での話を言っている。
意識の上で民族をシャッフルすれば、風俗の違い、生活習慣の違い、宗教の違いなどは遠くへ追いやられる。
森巣博の無族協和という主張に、徳さんの民族ミキサー法はかなり接近している。
TVの街頭インタビューに答える人々を見ていると好戦派と反戦派では言語技術の水準が明らかに違うのだ。好戦派は先程触れたワイドショー主婦のように、この数年、保守論壇が語りワイドショーのコメンテーターや小泉のことばとしてメディアで大量に露出されてきた新保守的な国家論や改憲論を屈託なく語ることができる。(中略)好戦論を語るに十分なほどジャーナリズムや政治によって提供されてきた。(中略)それに対し、街頭で反戦を口にする人々のことばはどうにもつたないのだ。「やはり戦争はよくない」といった実感をことばにしてはいるがそれを相手に対して主張しうるロジックとして組み立てられないのだ。それはことばの提供のされ方に明らかな偏りがあるからだ。
大塚英志 『サブカルチャー反戦論』より 角川書店
徳さんの反戦の言葉がつたない理由が今明らかにされた。
確かに語るべき人の発言が極端に聞こえてこない。従って、徳さんの反戦論は手作りでなんともつたない。
じわじわと忍び寄る改憲論、好戦論の特徴は大上段に国民に訴えるのではなく、まるで毒の希釈液の濃度を徐々に高くしていくといった方法を取っている。国民の持っているリトマス試験紙の感度の劣化を待っている。
「ぼくの世にも下手なヴァイオリンのことですか?あれは『チゴイネルワイゼン』という……」
「え?今のは『チゴイネルワイゼン』だったのか!」
思わず私が叫んでしまったので、キヨシは言葉に詰まり、かなり傷ついたようだった。
「まあ、そうは聴こえなかったかもしれないが、あれはサラサーテがハンガリーで聴いた、ロマの奏でる即興に感銘を受け、採譜したものがベースになったといわれています。かくして、弦楽史上最高の傑作は生まれた。東洋と西洋との衝突によってです。」
「東洋と西洋の衝突?」
「そう、西洋の楽典理論からだけでは、あれは決して生まれなかった。一方楽譜や理論を持たないロマの楽士たちだけなら、あれは即興の調べとして空中に消えていったでしょう。両者があってはじめて、あれは世に遺ったのです。」
島田荘司 『ネジ式ザゼツキー』より 講談社
推理小説にさして興味を持っていなかった徳さんが、推理小説ファンになったのが、島田荘司の『占星術殺人事件』がきっかけだった。(以前患者さんだったことのある、青少年向けの小説家 若木未生さんに紹介された)
クラシック音楽が苦手の徳さんを、クラシックも多少は楽しめる男にしてくれたのが、サラサーテの『チゴイネルワイゼン』だった。
島田荘司は何事にも博学で、音楽にも造詣が深く、小説上で突然薀蓄を傾けてくれたりするので、推理以外にも楽しむ事が出来る。
宗教戦争の一面もあるイラク戦争が泥沼化している現在、西洋と東洋のよき意味での衝突、現代の『チゴイネルワイゼン』は作曲された気配は無い。
*ところで、手ができ上がっていく時には、まず握りこぶしのような塊ができ、その塊の中にたてに四本の筋が入るという順序になる。実は、この四本の筋にあたるところの細胞は死んで消えていくのだ。こうして見事に五本の指ができ上がる。それにしても、母親の胎内で赤ちゃんが育っていくこんな初期の段階に、すでに死という現象が必要だということに何か考えさせられるものがある。はしを持つ、鉛筆を握るなど日常生活で大活躍する五本の指が正常にでき上がるためには、その隣の細胞は、決められたときに決められた場所で決められた量だけ死んでいかなければならないわけだ。
あらゆる意味で、生と死とは隣り合わせのものなのだろう。

*ワトソン=クリックがつくったみごとなモデルを中心にしたセントラル・ドグマで、大腸菌のような単純な生物の遺伝学は確立しましたね。十年ほど前までは、これは原理的には人間まで同じだと思っていたわけです。そして世界中の分子生物学者が多細胞生物の研究に入ったわけです。(中略)しかし、彼らがすっきりした解答をだしているかというと、まだ誰も出していませんね。(中略)生物を大腸菌の分子生物学の延長上で考えるのが難しいということでしょうね。(中略)多細胞生物での構造やはたらき方は、大腸菌のそれと違うことはすでにはっきりしました。具体的には、たとえばネズミの遺伝子の中にはたんぱく質合成に直接関与していない部分がかなりあるわけです。この部分の意味は何かということになるのですが、何にでも意味を求めたりしてはいけないのかもしれませんし。
中村桂子 『生命科学者ノート』より 岩波現代文庫

抜粋の前半は、以前、発生学の本で出くわした記憶があるので、これは、徳さんの記憶の再確認。そうでもしないと、日常生活の中で生命の生と死を感じようともしない鈍感な徳さんだからして。
後半が伝えたかった事。いっけん無意味な遺伝子というものが多細胞生物には見うけられるらしい。この存在に注目しなければならないと思う。過去にその生物が出会ったウィルスとの共存の姿だという説も聞いた事がある。いずれにしろ、単細胞生物と多細胞生物が直結するものでないと知らされ、単細胞の徳さんはホッとしたのである。何にでも意味を求めてはいけないかも、というのは最先端ならではの謙虚さだと思う。
都市というのは自然を排して、人工の環境をつくること、いいかえれば頭の中を外界に実現したものです。都市の人は闇を追いはらうことで安心します。都市の人にとって、もっともコワイのはムキダシの自然です。
「自然」というのは、思い通りにはいかないものです、予測のできないものです。「人工」に対する「自然」。人が頭で考えて作り出したものは、頭で理解可能ですが、その脳ミソも含む「人体」そのものや、手つかずの自然というのは、人間にとって闇です。なにが起こるかわからないオソロシイもの。
これに、どう対するかといえば、なかったことにするということなんでした。
南 伸坊 『仙人の壺』より 新潮文庫
中国の仙人にまつわる話を伸坊さんの漫画と独特の解説で紹介した本。
思わず伸坊さんなどと、知人でもないのに気安く呼んでしまうほどのお人柄に加えて、伸坊さんは天才的な生徒としての才能をお持ちです。この抜粋部分は、『論語』の「子は怪、力、乱、神を語らず」を説明している所。
仙人の本を読んでて、養老猛司先生の『唯脳論』のエッセンスを教えてもらう徳さんは、つまみ食いの才能をお持ちのようでげす。
イラクとアメリカの関係、不夜城としての大都市、世界を支配してしまったパソコン狂想曲、病的な清潔志向の現代若者像が一瞬分かった気になるのだ。
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