本日の抜粋 2

本日の抜粋 2

本日の抜粋 1

近代の監獄は、きわめて合理的かつ効率的に設計されている。(中略)そこにあっては、円柱形の中心に監視室が置かれており、監視室から、円の周囲にシェル状に配置されたそれぞれの監獄はすべて見渡される。しかし、それぞれのシェルから監視室の内部は見えない。その結果、それぞれの房に入れられた囚人からすれば、監視室に実際に監視人がいるかどうかはわからないのである。しかし、自分が監視されていることはわかる。そして、それで十分監獄の目的は達成される。中央の監視室に誰もいなくてもかまわないのである。こうして極めて効率的、合理的な監獄システムができる。(中略)これこそが、近代社会の基本的な構造を象徴しているとフーコーはみるのである。(中略)このシステムを構成しているものは中央の権力というよりも、システムの合理的、効率的設計なのだ。(中略)これは近代というものの、おおいなる逆説といってもよいだろう。なぜなら、もともと、中心の絶対的な権力に対する合理的精神の戦い、これこそが(通俗的に理解された)近代の意味であった。(中略)
しかし、フーコーはもはやこうしたことを信じない。(中略)「近代」のイデオロギーそのものが、むしろ、管理装置として働いているのである。(中略)
近代の輝かしい成果である科学知識が、真理ではなく、むしろ権力の装置、管理のシステムとして作用するということ、あるいはまた、真理という観念そのものが、管理のための装置として作用するということ、これはもうわれわれの社会の紛れもない構造となっている。
佐伯 啓思 『イデオロギー/脱イデオロギー』より 岩波書店
若い時に2度ほど頭を強く打った事があって、苦手な事に出くわすと、いつもそのせいにしている。哲学書というものも大の苦手である。挑戦しても挑戦しても理解したと実感できた事がない。フーコーだって読んでみたのだが結局本棚を飾っているだけのものになってしまっている。哀れ、徳さん。
そんな時この本は徳さんのお助け舟になってくれる。
最良の管理システムに今だ出くわした事のない日本社会であるが、質の悪い日本の管理システムにも同様にシステム取り込み作用だけは機能している。元が悪いだけにうんざりしてくる。
湾岸戦争のときに、アメリカが日本に協力を迫った根拠は日米安全保障条約である。「日本とアメリカは軍事同盟だ。だから、アメリカが戦争をするときに助太刀しろ」と言ってきた。日本は助太刀(軍事的貢献)は嫌だから、代わりにお金を受け取ってくださいとなった。
誰が見たって、日米安保は軍事同盟に決まっている。アメリカは日本の軍事基地を使用できると言うのだから、明らかに軍事同盟。これも国際法の初歩の入門。日米安保が軍事同盟ではないなんていう人、これは国際法を全然知らないと告白したようなもの。日米安保は軍事同盟。
軍事同盟は仲よし同盟ではない。安保条約は契約である。契約には条文がある。だから、条文に決められた義務を遂行すればよい。
では、日本の義務は何か。アメリカに軍事基地を自由に使わせる。それだけである。実際に使わせた。もし日本が、アメリカに日本の軍事基地を使わせなかったら、アメリカは物資輸送の中継点を失い、湾岸戦争は出来なかった。その意味で、充分に貢献している。
安保条約のどこに、アメリカが戦争するときに日本が助太刀すると書いてあるか。書いてない。お金を出すと書いてあるか。書いてない。だから、「日本はすでに義務を遂行している。それ以上のことはやりません」と、きっぱり言えば済むことだ。
130億ドルの支出は、国際法上は不必要だった。
小室 直樹 『日本国民に告ぐ』より クレスト社
徳さん、この手の本をめったに読まない。サブタイトルが「誇りなき国家は、必ず滅亡する」というものだ。喰わず嫌いで敬遠してるのが自分でもよく分る。
何故そうなのか?この本はそこの所を懇切丁寧に教えてくれる。なんでも徳さんたちは終戦後のGHQに洗脳されているそうな。バカバカしいと思ってはいけない。結構、論旨明快。随所にうなずけるところあり。
対抗するにはかなり勉強しなくてはならない。
また“個人の喪失”も神秘的なものへのあこがれを生んでいると私は見てる。
ちょうど人類が月に足跡を残したことが象徴的に物語っているのだが、資本主義はおそるべき勢いで目に見えるものはおろか目に見えない自然や人間の秘部をもつぎつぎとあばいて情報化(商品化)した。つまり人間の想像力の領域を消費していったのだ。個人とはその私的な想像の中にこそ安住できるものであってみれば、私たちは個人的な住居から追い出されたホームレスになったと言える。身近なところではたとえばテレビCFがいち早く人間の個人的想像や欲望を先取りしてそれを風俗化してしまうのもそのひとつである。一九六九年以降に生まれた子供は夜の空を見上げ、ただ月をぼんやり眺めるだけで、想像の世界が育まれるということはなくなったのだ。秘術への想いは、あたかもホームレスの家探しなのである。
藤原 新也 『藤原悪魔』より 文藝春秋
藤原 新也 『藤原悪魔』より 文藝春秋
時々、藤原新也や戸井十月のような、漂れて歩くタイプの旅行者の手記を読む。
マスコミが提供する情報と一味違うからだ。
何が違うのだろうか?
それは彼らがアクの強い個性で対象に向かうからだ。そこには彼らの想像力がある。切り口がある。
それは反発するにしろ、同意するにしろ読む者の想像力を駆り立てる種類のものだ。
もちろん、徳さんはそれを商品として購買して読むわけだが、、、、。
女はだまってライターをもどした。それまでひらいていた顔があらゆる箇所でふいに閉じ、苦笑が消えた。眼がうつろになり、頬がしまってきつくなった。これまでに湖でも、部屋でも、枕もとでも、朝となく夜となく、あらゆる場所で女はそれを眺めてきたはずだった。けれど、眼にもとまらなかったそれがふいに前面に出てきて、場所をふさいでしまったのだ。女は愕いた様子で、茫然と茶碗を眺め、拒まれた自身を眺めていた。そうなのだった。全体はいつも細部にあらかじめ投影されてある。いつもそのことを私たちは忘れてしまう。そのため、全体に熱狂してやがて細部に復讐され、細部に執して全体に粉砕されてしまうのだ。
開高 健 『夏の闇』より 新潮文庫
患者さんに薦められて読んでみた。
今まで、開高健の小説や随筆の類を読んだ事が無かった。何となく敬遠してたのだ。
ダンダンディダンダダディダンーというサントリーのコマーシャルから釣りの話、食い物の話と、馬鹿やってんじゃ無いよ~との想いが強かった。この間、開高健の作品を幾つか読むうちに食わず嫌いはいかんと反省した次第。
引用の部分は主人公がベトナム戦争従軍の際にアメリカ兵から譲られたライターを巡っての話である。
細部と全体に対する繊細な感性には身につまさられるものがある。
拒まれた自身を眺めるというのが徳さんにとっては一撃だあった。
現在、絶版になっているとかで、なかなか手にする事が難しかった事を申し添えておく。現在の出版事情とはこんなものかと悲しくなる。
近代家族は親を親役割から、子を子役割りから降りることを許さない。むしろ親と子、夫と妻がそれぞれの役割をシナリオ通り「上演」してくれることを前提になりたっている。この家族という「舞台」にとっての誤算は子どもが育ちあがってからも、高齢化のおかげで老いてゆく両親と成人した子どもとのあいだに長期にわたって続く親子関係の台本が、準備してなかったことである。親子関係といえば、これまでは親と未成年の子との関係を自動的に指したが、超高齢化社会ではむしろ子が成人してからの親子関係の期間の方が圧倒的に長い。この長きにわたる期間を、節目ふしめに親子関係を組み替えながらどう過ごしていったらよいかについての、マニュアルは存在しない。
上野千鶴子 『文学を社会学する』より 朝日新聞社
どうも、厄介な時代に出くわしてしまっているようだ。
あと二週間で還暦を迎える徳さんにも老いた母がいる。老々介護への道、まっしぐらである。
しかも、マニュアルは存在しないという事だ。
およそマニュアルというものに存在価値を見出さない日頃の徳さんだが、先人達の経験は尊重するようにしている。
その経験の蓄積が無いとするとどうすればいいか?
行政の提供する介護方針は老人を欠落部分の集合体としてとらえ、一つ一つの欠落に当てはまる介護部品を提供すればよいと思っている。しかもそれぞれの介護部品に軽重をつけ価格まで付けたりしている。これでは全人格者としてのジジババの崩壊を促しているようなものではないか。
経験の蓄積という、本来なら数百年、数千年かけなければ成り立たないだろう人間の知恵を、今この場で求められている息苦しさの中で我々は生きていかなくてはならない。
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